極楽百年、穢土一日

極楽百年、穢土一日

極楽百年の修行は穢土(えど)一日の功徳に及ばず

(美輪明宏「紫の履歴書」)

8月9日は長崎に原爆が落とされた日でした。

長崎出身で、ご自身も被曝者である有名人といえば美輪明宏さん。

その33歳までの人生を綴った著書「紫の履歴書」は、超ロングセラーなのでご存知の方も多いと思うのですが、もし未読なら、ぜひ!とお勧めしたい本です。

酸いも甘いも苦いも辛いも、天国の恍惚も地獄の惨めさも。

若くしてあらゆる人生の味を知ってしまった人の、波乱万丈の半生が描かれています。

原爆が落とされた当日や終戦後の状況も描かれ、その悲惨さが臨場感を持って迫ってきます。

しかし、それ以後の美輪さんの個人的な体験の数々も、甘い恋愛のエピソードなどもあるものの、並大抵のものではありません。

ここに引用したのは、生活のために水商売をしていた時のエピソードを語った部分の小タイトルです。

バーテンダーだった美輪さんが、からんできたホステス相手に小気味良く啖呵を切り、そのあと見事に場をおさめるシーンは、この本の中でもひとつのハイライトとなっています。

そして、美輪さんはこのように考察します。

<素人十年、玄人(ミズ)三年。
僕は、ようやくこの言葉の意味がわかって来た。ぬるま湯のような生活で十年を過ごす素人衆は、水商売の連中が三年くらいの短い間に経験する人生を悟るのに、十年の歳月を必要とするという。
しかし、僕は、この毎日毎日が波乱万丈で真剣勝負の水商売の人生は、ノーマルとやらの健康生活者達には、十年やそこらかかっても、到達なんぞ出来るものではないと思った。>

これが「極楽百年の修行は……」という言葉につながるわけです。

確かに、仏教的な意味ではなく現実生活に限ってみても、何かを悟れるかどうかは、生きた時間の長さではなくて、その時間の中身次第でしょう。

小学校の時、同級生と違う色のカバンを持たされたことに不満をもらし「自分は苦労した」と言う人もいます。深刻な家庭不和や経済的な厳しさの中で子供時代を過ごしても、一言も苦労という言葉を使わない人もいます。

多くの人は、本書を読むと「苦労」とか「どん底」というもののイメージが変わるのではないでしょうか。

私自身も「苦労という言葉を軽々しく使ってすみませんでした!」と謝りたい気分になります。

だから人間には苦労が必要だとまで言うつもりはありません。
苦労しないですむなら、それに越したことはないでしょう。

ただ、想像力は本当に大事です。自分のまったく知らない世界があり、そこで生きていた、生きている人たちがいる。そこに思い至ること。

その世界で、失われるものも、培われるものもあると知ること。自分が今いる世界の狭さを知ること。

そういう想像力を養ってくれるという点で、優れた小説やノンフィクションというのは素晴らしい「師」だと思っています。

そして。。。読んで感動しておしまいではなく、それを少しでも何かに生かしてこそ、読んだ意味があるというものですね。ズキズキ。(←書いた言葉が自分に返ってきました。)

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